姫路城の有名人といえば、千姫さま! 徳川家康の孫娘で豊臣秀頼の妻。そして姫路の姫様。千姫の生涯まとめ

姫路城の有名人といえば、この人!


姫路城に関係する有名な人物として、名が挙がる人に千姫がいます。 日本の歴史にはあまり名前が挙がらない人物ですが、姫路城に関わる人物といしてはとっても有名人!では、千姫とはどんな人物だったのでしょうか?

今で言うならスーパーセレブ!


化粧櫓内の千姫(左)と勝姫(右)の人形

1597年 千姫は、伏見城内の徳川家屋敷にて父、徳川秀忠と母、江の間に生まれました。 父の秀忠は、徳川家康の息子で後の徳川幕府2代将軍になる人物で、母の江(ごう)は、戦国一の美女といわれた織田信長の妹であるお市の方の娘です。 (つまり、千姫は、徳川家康の孫娘にあたります)

家康の孫娘で秀吉の義娘に。


1598年 千姫が2歳のときに豊臣秀吉の命により、秀吉の跡継ぎの秀頼(6歳)と婚約し、 1603年 7歳で豊臣家に嫁ぎます。 秀頼の母の淀君と千姫の母のお江とは姉妹のため、2人の結婚はいとこ同士の間での結婚ということになります。 この結婚は、秀吉が亡くなる前の年に決められました。 豊臣家と徳川家の結びつきを強める目的である上に千姫を豊臣家への人質にするようなものでもあったと考えられますが、 実際には、千姫は秀頼との仲もよく、幸せな日々を送っていたと言われています。

そして大阪「冬の陣」と「夏の陣」


やがて豊臣家と徳川家の争いが起こり、
1615年、千姫19歳の時に夏の陣で大阪城は落城、夫の秀頼と義母の淀君は自害します。
その中、千姫だけは戦火の中、大阪城から救出されます。

そのときの話から「千姫事件」という出来事があったといわれています。

その話によれば、
徳川家康が孫娘の千姫だけでも助けたいと思い、「千姫を無事救い出す者があれば、千姫を妻に取らせよう!」と家来に約束をしたといいます。
そして坂崎直盛が、燃える大阪城から千姫を救出し、家康のもとに送り届けます。
しかし、千姫は救出の際に顔に火傷を負った坂崎を拒絶してしまいます。そしてその後、江戸に送り届けられる途中で、桑名城主本多忠刻(ただとき)に一目惚れし、家康が千姫の気持ちを汲んで本多忠刻と結婚させたとされています。
その結婚に不満が募った坂崎直盛が千姫の輿入れの際に千姫を奪う計画を立てたとして処刑されてしまったという話です。

この話は物語として大げさに脚色されているといわれ、救出劇も実のところ、夏の陣の時に豊臣家の家臣である大野治長(おおの はるなが)が家康のもとへ家康の孫娘である千姫を送り、孫娘から家康に秀頼と淀君の助命嘆願をしてもらおうとしたというのが事実ではないかとされています。 戦火の中の劇的な救出ではなく、そもそも豊臣側の家臣が千姫を護衛し、徳川側の坂崎直盛に千姫を託したとされているので、物語のように燃え盛る大阪城から千姫を妻にもらいたいがために坂崎直盛が救いだしたということではないようです。

その後も坂崎は、千姫と公家との婚姻の手配をとるなど千姫と徳川家に尽くすのですが、
千姫と同じように家康の孫娘である熊姫(本多忠刻の母)の願いにより、本多忠刻との結婚が坂崎の知らないところで決まってしまいます。
千姫に秀頼との政略結婚をさせてしまった代償として家康が次は本当に好きな男性と結婚させてあげようとしたという説もある反面で、 秀頼と仲がよかった千姫を豊臣家の象徴として豊臣家の残党が集まらないように徳川の手が届きにくい公家ではなく徳川家の息がかかる家に嫁がせるようにしたという説もあります。

結果的に坂崎の用意した公家との婚姻を断り、坂崎の知らないところで本多家に嫁がせることになったことに対して、坂崎は武士の面目が立たないとして千姫の輿入れの襲撃を企てたと考えられています。
そして、その企てが幕府に見つかり、坂崎はお家取り潰しの代わりに切腹を言い渡されました。
直盛は拒否しましたが、家臣により酔ったところを討ち取られたといわれています。

しかしこの坂崎成敗の話も、徳川家が公家との結婚を断って千姫を別の家に嫁がせるようになったことを世間に納得させるために、千姫の恋物語や坂崎の襲撃事件未遂などを作りあげ、世に流したのではないかとも考えられています。

夏の陣の後、千姫は豊臣家と縁を切る(切らされる)ために満徳寺(群馬県太田市)で尼になります。
尼になり出家することで、豊臣家から出たことになり豊臣家とは縁が切れることになります。
この入山は縁を切るという形式的なもので、千姫本人ではなく、千姫の侍女(または大奥の人物)が千姫の代わりに満徳寺で尼として生涯をすごしています。

こうして、豊臣家との縁が切れたことで、あらたな人生が始まりました。

およそ100億円!?破格の化粧料(嫁入り持参金)!


西の丸 渡り櫓

1616年 千姫が21歳の時に本多忠刻と結婚しました。 翌年の1617年、忠刻の父、本多忠政が姫路城の城主となり、一緒に姫路城に入りました。
その際、忠刻には千姫の化粧料(嫁入りの持参金)として10万石が与えられ、その化粧料で姫路城に化粧櫓や御殿を建てたとされます。
義父の本多忠政が5万石を加増されて15万石になり姫路城城主になったことを考えれば、10万石は破格だったといえます。
(1石はおよそ1両と同じくらいだといわれ、この時代の1両は現在の貨幣価値でおよそ10万円くらいだと考えられます。つまり10万石とはおよそ100億円!?)

人生で最も幸せな時間!でも長くは続かなかった。


男山千姫天満宮

姫路城での暮らしは、幸せに満ちており、1618年、22歳の時に長女の勝姫が生まれ、翌年1619年には長男の幸千代も生まれ、千姫は人生で最も幸せな時を過ごしていたといわれています。

しかし、幸千代は3歳で亡くなり、その後も流産を繰り返すなど不幸は続いてしまいます。

1623年、千姫は、化粧櫓から見える男山に、信仰していた天神(菅原道真)を祀る天満宮を建立し、魔よけとして持っていた羽子板を奉納し、本多家の繁栄を祈ったといわれています。

しかし、不幸は続き、1626年5月に夫の忠刻、9月には母のお江が亡くなり、千姫は失意の中、江戸へ戻ることにします。
江戸に戻った千姫は、天樹院として忠刻や幸千代の冥福を祈りながら、竹橋御殿で勝姫と暮らしました。

1628年、11歳の勝姫は鳥取の池田家に嫁ぎ、千姫は一人になりますが、幾度と孫に対面したり、娘婿を支援したり、弟の家光の子の養母になったりと、裏舞台で活躍しました。
1666年、70歳でその数奇な生涯を終えています。