法隆寺の国宝美術


百済観音(くだらかんのん)

 国宝百済観音像は、飛鳥時代を代表する仏像で、広隆寺所蔵の弥勒菩薩像などと ともに、昭和26年に初めて国宝に認定された作品の一つです。
 像の高さ2.09m、八頭身の長身で、樟の一本造りで両腕の肘からさきと水瓶 、天衣など別材を継いで造っています。宝冠は線彫りの銅版製で三個の青いガラス玉で飾られています。独特の体躯の造形を有し、杏仁形(アーモンド形)の目や古式な微笑みをたたえる表情は神秘的であり、多数の随筆等によって紹介されるなど、我が国の国宝を代表する仏像の一つです。
 本来、百済観音は、虚空像菩薩として伝わっていました。虚空とは、宇宙を意味し虚空菩薩は宇宙を蔵にするほど富をもたらす仏様ということなのです。
その宇宙の姿を人の形に表したのが百済観音だというわけです。
 もともと、この像は金堂の壇上で、釈迦三尊像の後ろに北向きに安置されていたもので、今は新築された百済観音堂に安置されていますが、この像の伝来は謎に包まれています。法隆寺の最も重要な古記録である747(天平19)年の「法隆寺資財帳」などにも記載がなく、いつ法隆寺に入ったのかわかっていません 。1698(元禄11)年の「諸堂仏躰数量記」の金堂の条に「虚空蔵立像、七尺五分」と、初めてこの像についてと思われる記事があらわれ、江戸時代、1746(延享3)年、良訓が記した「古今一陽集」に「虚空蔵菩薩、御七尺余、此 ノ尊像ノ起因、古記ニモレタリ。古老ノ伝ニ異朝将来ノ像ト謂ウ。其ノ所以ヲ知 ラザル也」と記されているといいます。
明治になって、それまで象と別に保存されていた、頭部につける金銅透彫で瑠璃色のガラス玉を飾った美しい宝冠が発見され、この宝冠に観音の標識である化仏 があらわされていることから、虚空菩薩ではなく観音像であるとされるようになりました。いつしかこれに「百済国将来」という伝えがかぶせられて「百済観音」とよばれるようになったということです。しかし、作風からみて百済の仏像とはいえず、また朝鮮半島では仏像の用材に用いられていない楠の木でできていることから、日本で造られた像であると見られています。  


救世観音(くせかんのん・ぐぜかんのん)
 
 国宝観音菩薩立像(救世観音)は八角円堂で知られる夢殿のご本尊で秘仏として長い間人目ん触れず過ごしてきた仏像です。
 飛鳥時代に造られた樟の木の一木造りです。像178.8cm、下地は漆を塗り、白土地に金箔を押している。保存もよく、いまなお金色燦然と、当初の漆箔が輝いています。
独特の体躯の造形を有し(体躯がやや扁平で、S字状のポーズ)、杏仁形(アーモンド形)の目や古式な微笑みをたたえる表情は神秘的で、手にはすべての願いがかなうという宝珠を持っています。
 761年(天平宝字5年)の記録に「上宮王(聖徳太子)等身観世音菩薩像」とあり、聖徳太子の等身像ともいわれて秘仏であったが、明治17年アメリカ人の学者フェノロサと近代美術の先駆者、岡倉天心によって像を幾重にも覆っていた長い白布が除かれ広く世に知られるようになりました。当時、この秘仏の白布をとることは、聖徳太子の怒りに触れ、大地震が起こると言われていました。そして天心とフェノロサが布をとるとき、法隆寺の僧たちは恐れをなして、逃げていったと言います。

春4月11日〜5月18日、秋10月22日〜11月22日 の期間、夢殿本尊特別開扉されます。

夢違観音(ゆめちがいかんのん・ゆめたがいかんのん)

 明るい表情と美しい均整のとれた夢違観音像。
夢違観音の由来は悪夢を見ても、この仏像に祈れば吉夢に変えてくれるという信仰があり、夢違観音とよばれています。
白鳳時代の作品であり高さ86.9cmの銅造で、額には化仏をつけ、顔は丸顔で、やや鋭角的な唇に優しほほえみをうかべています。また、上半身裸形で身体は豊かな厚みがあり、天衣はゆるやかな曲線をもち、左手には小さな水瓶をもっています。
現在法隆寺の大宝蔵院にありますが、江戸時代の宝永7年(1710年)以降は東院絵殿の本尊として祀られていました。 

菩薩半跏像(寺伝では如意輪観音像)(国宝・飛鳥後期)

 日本最古の尼寺の伝統を維持する斑鳩中宮寺の本尊として、千三百数十年にわたり尼僧の祈りに護られてきた中宮寺菩薩半跏像は、世界最古の寄木彫刻です。

半跏思惟の姿は高貴な気品にあふれ、柔らかな微笑みは世界三微笑の一つと称えられるアルカイックスマイル(古典的微笑)の典型として評価され、エジプトのスフィンクスやレオナルド・ダ・ヴィンチ作モナリザの微笑と同等とされています。
飛鳥時代後期の作で、像の高さ167.6cm1材から造る飛鳥時代の通例とは異なり、11の部分から成る複雑な寄木の技法で樟(クス)から彫りだされています。それまで正面性を重んじて発達してきた飛鳥彫刻の表現が、ついに側面および背面においても完成に至ったことが知られます。この像は、まさに飛鳥彫刻の究極の美を示すもので、正面からの鑑賞から立体的な鑑賞眼を意識しています。

 半跏思惟の姿で如意輪観音とする寺伝が残されていますが、この像の関する文献資料は何もないため、いつ、だれがつくったのかわかりません。この半跏像が文献に登場するのは、1275(建治元)年の上円の『太子曼荼羅講式』には「救世観音」と、また1463(寛正4)年董麟(トウリン)の『中宮寺縁起』には「二臂の如意輪の像」とかかれています。救世観音は如意輪の変化身であり寺伝では
如意輪観音と称されてきました。
 しかしこれは、聖徳太子が如意輪観音の化身だということからいわれたことで、本来は弥勒菩薩として造られたものと思われます。
なお、この像は、国宝登録名は「菩薩半跏像」です。
 現在は下地の黒漆が表面に表れていますが、当初は、漆塗りの上に彩色を施し、宝冠や胸飾りなどの装身具をつけていたと思われます。光背(コウハイ)・台座も当初のものです。