再建論・非再建論

 世界最古の木造建築といわれる法隆寺ですが、一度再建されたという再建説と再建はされず創建以来の姿を残しているとする非再建説とで明治以降論争を繰り広げてられてきました。
 再建論を論ずる根拠として日本書紀の670年4月30日の条に「法隆寺災あり一屋も余すことなし」と記されていることや「和銅年間」(708〜714年)に「法隆寺を造る」という記録があることから、法隆寺は670年の火災以降に再建されたとする再建説が生まれました。しかし、その一方で金堂や塔などの建築様式が大化改新(645年)以前に用いられていた尺度(高麗尺)で設計されていることから、法隆寺は大化改新以前の建築で創建当初のままだと反論し、非再建説を打ち立てました。

しかし、1939年、再建論と非再建論との論争に終止符が打たれます。
現在の西院伽藍の南東部から火災に遭ったとみられる伽藍跡(若草伽藍)が見つかり、これが火災で焼失した前身寺院に当たり、現在地に再建されたとする見方がこれ以降定着しました。

ところが、2001年2月20日、1943年から1954年までの解体修理で、腐食していたため取り出され、京都大で保管されていた心柱の標本を「年輪年代法」と呼ばれる測定法で測定すると594年に伐採されたヒノキ材だったことが明らかになりました。この結果からすると670年に起きた火災で全てが焼失し、710年頃に再建されたとされる再建論に疑問が生じてきます。たとえ法隆寺が再建されていたとしても594年に切られた木を710年まで寝かせて置くということは考えられにくく、またあらたな再建論・非再建論の論争が起こりそうだと考えられています。




心柱の伐採が594年と判明したことを受けて様々な説が発表されています。

-移築-
現在の法隆寺は他の寺の塔を移築したと考える説で、蘇我馬子が建立したとされる日本で最初の寺「飛鳥寺」の塔を移築したのではないかという説や法隆寺近辺のいくつかの寺の塔を移築したという説などがありますが、どこの寺のものを移築したかという証拠が見いだせずいくつかの説のひとつとして数えられています。


-木を寝かせて置いた-
594年に伐採された木材を710年頃まで寝かせて置くことは一般の寺院建立では考えにくいことですが、594年頃は仏教の広がりと共に各地でいくつもの寺院が建てられていきました。その際かなりの木材を伐採していたということは考えられます。いくつかの木材は使われずに残されており、法隆寺の再建時に使用されたと考える説です。


様々な説がありますが、法隆寺の心柱は先端から14.3mのところで2本の部材が組みわされていることもあり、全ての木を調査しないと詳しいことを語るのは難しいとされています。




年輪年代法

遺跡や発掘による出土品などは、その年代を調べるために様々な年代測定法が用いられます。中でも有名なのが炭素14編年法。
出土した植物などに含まれる炭素14という物質の量を測定する方法です。炭素14は生物の死後、同量の割合で徐々に減っていくことから、その残量を測定し年代を割り出します。

ところが、この測定法では数年から数十年の誤差が出てしまうことから、はっきりとした年代測定としては参考程度としてしか用いられません。
しかし、年輪年代法では誤差なく年代を割り出すことが出来ます。

原理は、木の年輪はその年々の気候に左右され、どの木においても同様な成長するという法則を用いて、木目を指紋のように見立て年輪の特徴を波形で表し、年代を割り当てるという測定します。

こうやって各年代に伐採された木の波形を組み合わせ一つの波形*パターンをつくり、測定したい木材を照合することで、いつその木材が伐採されたかがわかります。

しかし、この測定法も木材の一部だけでは測定が困難で、伐採された時の一番外側の年輪、つまり樹皮付近の年輪が残っていることが必要になります。

今回、法隆寺の心柱は、樹皮付近の年輪が肉眼では確認できませんでした。しかし、X線を使うと肉眼では見えなかった樹脂付近の年輪まで確認する事ができ、結果594年という確実な数字が導き出されました。


*現在ヒノキは紀元前912年、スギは紀元前1313年まで年輪の波形パターンが完成しています。