中村大佐の碑

江戸幕府が倒れ新政府が発足すると、城は無用の長物になっていきました。そこで姫路城は解体されることになりますが、費用が莫大にかかることから、姫路城は競売にかけられることになります。落札者は姫路市米田町の神戸清一郎氏で落札価格は23円50銭でした。
神戸氏は城の瓦や釘を再使用するつもりでしたが、やがてうまく使えないことがわかり、結局その権利を放棄してしまいことになります。
そんなころ姫路城のすばらしさを後生に残すべきだと立ち上がったのが、当時陸軍省第四局長代理だった中村重遠大佐(なかむらしげとうたいさ)でした。
中村大佐は、陸軍卿(りくぐんきょう)(陸軍大臣)の山形有朋(やまがたありとも)に陸軍省の費用で姫路城を永久保存するための修理をすべきだと意見書を出しました。
この意見書のおかげで1879年(明治12)に姫路城の保存が決定しました。
 
 この中村大佐の働きをたたえ、「菱の門」の近くに中村大佐の碑が建てられています。